文乃の思考整理

20代後半女性。ADHDの診断あり。抑うつ状態で休職から復職。カウンセリングに通いつつ、生きやすさを模索する日々の記録。

文乃日記~死にたいは死にたいんだよ~

はろー文乃ねこです。今日もお仕事ちゃんと行った私はえらいです!ハードル低いとか言われても、私は私のハードルを必死に飛び越えているんです。甘えです。でも生きるために必死なんですよ。

 

というわけで、今回は最近毎日死にたいなーと思っているお話。

 

 

自分で自分を抱きしめる

 

「死にたいなんて言ってごめんなさい」とかつぶやきをよく見かけて、私は思うんだ。「いや、死にたいもんは死にたいでしょ」って。

 

またそれで死ぬか死なないかは別の問題よ?でも本人が死にたいって思うなら、それは死にたい以外の何物でもないじゃんって思うわけですよ。そこまで苦しいのに、他人の評価軸にあわせて罪悪感もつとか、苦行の極みやん。

 

死にたいは死にたい

 

死んでも面倒なの分かっている。自分の死後のこと気にしているのも意味不明だけど。「いっそ私の肉体と、私が存在した記憶すべて消えてしまえばいいのに」って、学生時代からよく思っていた。「そもそも私なんて生まれなきゃよかったのに」とも思った。

 

でもね、今は生きててよかったと感じることも増えたよ。生きていれば「生きててよかった」って思う可能性は0%ではないんだよ。死んだら0%だけどね。

 

他責でも生きていればえらいでしょ?

 

生きてる限り、いいことばかりじゃないし、歩くのだるいなって思うことも多数だし、歩かなくてもいいんじゃないかと思って体育座りでボーっとしてみたりもする。そんなんでも生きていればいいんじゃないかって思うの。

 

期待をしない

 

Twitterでね、死にたい気持ちを分かってください的な呟きをみて思ったことがこれ。言っていることはごもっともだし、伝えるのは自由なんだけど、実際現実で「死にたい」が受け入れられるかっていうと「否」なんだよね。

 

そこでまた「なんで受け入れてくれないの!」ってなると、新たな苦しみを産むから、他者に余計な期待をしないほうがストレス値は下げられると思うんだよね。

 

なーんてね。私の今日の日記でした。今日もみんな生きててえらいね。おやふみなさい('ω')ノ